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パラディーゾ
1998
スポンジボール、香り
サイズ可変
Installation view at Art Tower Mito, Contemporary Art Center, Mito, 1998
Photography by Saito Haruo
Courtesy Art Tower Mito, Contemporary Art Center, Mito
廣瀬は、視覚や嗅覚を刺激するこうした「場」をしつらえ、見る者の体験によって完成する作品を作りだしてきた。「見る者の体験によって完成する作品」とは、言い換えれば、「見る者の体験なしに完成しない作品」ということである。アーティスト自身がどのような作品をつくろうとも、最後の部分は未知数として鑑賞者にゆだねられる。視覚や嗅覚や触覚を通した直接的な体験から何を感じ得るのか、作品の完成には、鑑賞者の関与が必須条件なのだ。
楽園を意味する「Paradiso」では、鑑賞者の役割はさらに拡大している。ピンク、水色、黄色のスポンジボール、3万個をギャラリーいっぱいにに敷き詰めた今回の展示では、鑑賞者はもはや受け身でいられない。廣瀬の作品は、鑑賞者の積極的な参加を巧に促し、作品の中に入れない状況を作りだしている。
美術館での作品鑑賞が、通常、作品に触れずに静かに、作品から過度の距離をおいてみるものであり、そのような習慣が、人々にとりすましたよそよそしさをあたえるものであるとするならば、「Paradiso」は、作品と鑑賞者の距離を一気に縮め、美術館の常識や慣例をすべて乗越えてしまう鷹揚さや楽しさをはらんでいる作品だ。鑑賞者は作品に触れるだけでなく、ボールに横たわろうと、ボールと遊ぼうと自由であり、しかもひとつだけならボールを持ち帰ることができるのだ。
美術館という制度的な空間のなかで、アーティストと鑑賞者の関係、美術館と遊技場の関係、見ることと体感することの関係、鑑賞者としての大人と子供の関係、「Paradiso」という言葉とイメージの関係、イメージとリアリイティーの関係など、それぞれの関係の境界を、あいまいにしながら相互もミュニケーションが可能な環境を整えること。廣瀬はこうした作品を制作しながら、あらゆろ関係の間に横たう不確定であいまいな部分を意識し、認めようとする「寛容さ」を提示しているともいえるだろう。
イタリアという異国に身を置く廣瀬にはこの「寛容さ」の必然性は強烈な現実感を持って受けとめられているはずである。それ故に、「Paradiso」は、「あらゆる関係や間についての問い」に対し、アートの可能性を示す柔らかで静かな挑戦でもあるのだ。